1999年8月1日日曜日

「総合」商社は時代遅れであるか?

戦後、日本企業は一貫して多角化を進め、総合化の道を進んできたが、最近は自分の得意分野に経営資源を重点的に投入する傾向が顕著になっている。今や「選択と集中」というのが時代のキーワードだ。では何でも扱う「総合」商社も、もはや時代遅れであるのか? そうではないと思う。商社にとっては、その「総合力」こそが強みの源泉なのである。

まず商業と製造業との質的な相違がある。製造メーカーが製品を「製造する」のに対して商社は製品を「取り扱う」。製造業では「選択と集中」が競争力の強化につながるのが普通だが、商社の取扱商品の「選択と集中」は必ずしもそうではない。大根の販売に集中しても八百屋の経営が良くならないのと同じだ。

次に、一般企業の「選択と集中」が進み、企業の守備範囲が狭まれば狭まるほど、総合的なサービスへのニーズが高まることである。企業が専門性を高める一方で直面する問題は複雑化してきている。それが故に「オルガナイザー」、「ソリューション・プロバイダー」という総合商社の役割が一層重要になってくるのだ。

そもそもそれは商人の役割でもある。商人とは、船乗りシンドバッドの昔から、万国の世情、各地の物産に関する豊富な知識の持ち主であり、人々により有利な取引機会を提案するビジネス創造者であった。そのベースには知識と情報があった。三井物産の創設者で価値の高い美術品コレクションを残した益田孝の骨董品の鑑定眼は有名だが、その美術品の「違いがわかる」能力とは、商社マンの力そのものでもあったのだ。商社のコア・コンピタンスとは、やはりひとりひとりの商社マンの見識の広さにある。それは客先ニーズへの対応力の広さであり、すなわち「総合力」に他ならないのだ。

しかし問題がないわけではない。商社の規模がどんどん大きくなるにつれ、組織が細分化され、商社マンの専門性は深まってはいるが、逆に総合性が弱くなっているように思えることだ。ある特定の商品の知識しか持たない専門家はメーカーのセールスマンはつとまっても「商人」とは呼べない。商社マンひとりひとりの知識を、組織的に集積し、体系化し、全員で利用可能なものとすること、すなわち「ナレッジ・マネージメント」が喫緊の課題となっているように思う。

19世紀のイギリスでは、国策に基づきプラントハンターと呼ばれた植物専門家が世界中に派遣され植物収集を行った。集めた膨大な標本、データは、王立キュー植物園で体系化され、それが大英帝国発展パワーの源泉となった。プラントハンターは日本の商社マンのようだが、日本の商社には残念ながら王立キュー植物園に相当する体系化されたノウハウ蓄積システムがない。夏休みのシーズンでもある。植物採集でもしながら商社内キュー植物園の構築に思いをはすのは如何。

(1999年8月2日 橋本尚幸)